重苦しいほどむし暑い晩だった。 空には星ひとつなく、海は不気味に静まりかえっている。
私はいつものように、後甲板(注1)の方へ歩いていった。後甲板には先客が一人いた。デッキの 手すりにもたれ、その男はしきりに暗い海をのぞきこんでいる。 「今晩は」
と私は声をかけた。 ふりかえった男の顔は骸骨(注2)のように痩せ細っていた。眼が落ちくぼみ、顔色がひどく蒼白い。 「今晩は……」
男は低くしゃがれた声でそう云うと、薄い唇をゆがめて笑った。 私は男の隣りに歩み寄って、同じように暗い海をみつめた、海はいつでも私をもの哀しい
気分にさせる・海の中にいる誰かが呼んでいるような・・・・・。 「いやな晩ですね」 と私は云った。 ①「そうですか……」
男は骨ばった長い指で髪の毛をかきあげた。 「ぼくはこんな晩の方が好きなんですよ。なんとなく不気味で面自いじゃありませんか」 私は変った男だなと思った。私が黙っていると、彼が問いかけてきた。
②「この船に幽霊が出るという噂があるんですが、知っていますか?」 「幽霊?」 と私は訊き返した。
「ええ。やはりぼくたちみたいな客の一人が、自殺したことがあるんだそうです。こんなふ うに重苦しくて、風のない晩だったと云いますよ。その男はしばらく海を眺めていて、ふい
に飛びこんだんです。ちょうどここから、今、ぼくらがこうしているところからね……」 男は私の顔をのぞきこむようにして、にやりと笑った。
「あがった屍体(注3)は、右の腕がなかったそうです。スクリュウ(注4)に切りとちれたのかもしれませ んね」
二人は暗い海にほの白く泡だっているスクリュウのあとをしばらくみつめた。 「それで、その幽霊が出るんですね」 私の声は少しふるえているような気がした。
「ええ、自分の失った右腕をさがしているのだという噂です。こういうふうにむしむしして、
海が妙に静まりかえった晩、③男が一人でその海を眺めている。そして、しばらくするとふっと 消えてしまうのです」 男は自分自身をかき消すようなしぐさをした。
「なぜ、その男が自殺したのか知っていますか?」 と私は訊いた。 「( ④ )、なんの原因もないのです。金に困っているわけでもなく、失恋したわけでもな かった……」
眉をひそめ、男は遠い所を見る眼つきで海をみつめた。 「多分……」 と云って男は口ごもった。 「多分、この海を見ているうちに、なにもかもいやになったのでしょうね。そして、ひきず
りこまれるように、飛びこんだのでしょう。ぼくには、その気持がわかるな。こうしている と、なにもかも忘れて、この海の底で眠りたくなる。あなたは、そう思いませんか?
私も、海をみつめた。海は暗く、静かに私を呼びかけている(注5)ように思えた。 (注1)後甲板: (注4)スクリュウニ (注2)骸骨のように痩せ細った:非常に痩せた
(注3)屍体:死体 (注5)私を呼びかけている:通常は「私に呼びかけている」 ここまで読んで、次の間1から問4に答えなさい。
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