川に上流と下流があるように、われわれのくらしにも上流 (アップストリ一ム) と下流 (ダウンストリーム) がある。栓をひねると出てくる水の来るところは上流であり、流しに捨てた水の行く先は下流である。米、肉、魚、野菜、電気、ガス、石油、こういったくらしに必要なものを供給するところが上流であり、台所で出る野菜くず、便所の屎尿、こういった邪魔物をほうり出すところが下流である。
① われわれは、例外なく、下流より上流の方を気にする。上流が汚れ、乱れると、水や食べ物がまずくなり、危なくなり、くらしの楽しみが減り、からだが傷つけられやすくなるからである。上流にくらべて、下流に対する関心はゼロといってよいくらいうすい。目の前においておくと嫌なものを、見えないところ、遠いところに持っていくだけで、もう、すっかりその存在さえ忘れてしまう。( ② )自家用車を運転している人は、気楽な気分で歩行者や自転車族に排気ガスを吹きつけているのだが、そのことを意識している人はほとんどいない。これなど下流に対する無関心の典型である 。
それでも、昔、ずっと昔だと、上流と下流は、両方ともくらしのすぐそばに一緒にあって、誰の目にもその様子がよく見えていた。食べる肉がつい一刻前( 注1 )までは庭を走りまわっていた鶏であったり、野菜くずが庭のすみの穴に埋められ、しばらく後で堆肥( 注2 )になり畑に使われるといったことが、ありふれた風景であった。この当時だと、上流は自然と自分で監視していることになったし、自分は下流に関心がないといっても、少なくとも家族の中の一人がそれを始末していることは目にしていた。だから、③直接手をつけなかったとしても、下流の状態は、まちがいなくみんなが知っていた。
④上流と下流が両方ともそばにあるということは、自分の生活の上流が他人の生活の下流であるということである。それはまた、自分の下流が他人の上流であることでもあった。だから、そういう時代、人は( ⑤ )生活をしていた。飲み水を汲む流れのすぐ上でおしめ( 注3 )を洗うことは、いくら田舎でもつつしまれていたし、食べ頃の野菜に下肥( 注4 )をまくことは、絶対にしなかった。お互いにそのような知恵を働かしあって、人は生活を作っていた
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ところがやがて、都市と農村がわかれてきた。そして都市では、上流と下流が見えにくくなってきた。それは都市生活の一つの大きな特徴だった。
都市が大きくなるにつれ、都市のこの特徴は度が進んでいった。⑥ 実際今では、自分の家の水道から出る水が、○○川の△△取水口から入る、あの濁りのある水だという実感を持って水を使っている人はいないだろう。関心の大きいはずの上流のことさえ、都市では、小学校の教科書と社会見学で見るだけになっている 。まして下流に属するごみや下水のこととなると、⑦それは観念の世界のことでしかないと言って過言でないだろう。それが現代の都市生活における "下流" の位置である。上流も見えないが、下流はそれ以上に見えないというのが、現代の都市生活の特徴なのである。
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( 吉村功 『 ごみと都市生活 』 による ) ( 注1 )一刻前:時間的に少し前、先ほど
( 注2 )堆肥(たいひ):肥料(ひりょう) ( 注3 )おしめ:おむつ、赤ん坊の大便や小便を受けるために体に当てる布 ( 注4 )下肥(しもごえ):人間の大便や小便を用いた肥料
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