この文章は、中学生の約60%ができない数学の問題(図形の論証)を中学校のカリキュラム(注1)に入れるべきかどうかについて論じたものです。
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教育は本来平等を目指すべきものだが、しかし残念ながらある局面では平等たり得ない。ここに①教育の矛盾があると思う。二つの理由で、「図形の論証」のような難解な教材がカリキュラムに組み入れられるのも止むを得ないし、むしろそれがときに必要な措置だとさえ私が考えている
所以を述べたい。 第一に、教材は現在の社会の現実にだけ合わせるべきものではなく、未来への先見性を踏まえ た、社会のこれからのあるべき知的方向にも沿う内容のものでなくてはならないからである。
第二には②文化とは何か? ということと深く関係がある。
原理的にいえば、約五万字の大漢和辞典、すなわち中国の古典の世界に、日本の教育は連続して開かれているべきものであって、約二千字かの常用漢字を限定して、自分と古典との間に一本
の線を引くのは本来のあり方ではないのである。教育の中に分らないもの、及ばないものが入ってきてはいけないという考えが、③教育を狭めてしまうことになる。
別の例でいえば、現代の物理学ではここまでは分っているが、ここから先は分らないという事象が無数にあるといわれるが、④物理の教科書は分ったこと、解明済みのことしか記述しない。こ
のような教科書の記述の仕方は間違っているのではないだろうか。人類がまだ解決し得ていない事象をもむしろ書いておくことによって、若い頭脳を刺戟し、挑戦へ向かわせる可能性があるからである。分ったことや分り易いことだけで教育を限定すると、教育を結局は死滅させることに
つながり兼ねない。
同じことは⑤歴史の教科書についても言える。歴史は現代に対して生きて、動くもので、同じ一つの歴史が国によって違って記述されていいし、時代によって見方が変わってもくるという相対性の観点が、教科書の中にもっとどしどし取り入れられるべきなのだ。そのために不安が生じても、歴史は確定的な既知の事実の集積だと思わせるよりはよほどましである。不安はこの場合稔(注3)
りある不安だからである。 ( ⑥ )文化とは奥深いものであり、つねに生動しているものであって、われわれがどこか
で線を引いて断ち切ってはならない。教育は連続して奥深い世界へ開かれているべきものであって、全員が必ずしも理解できないこと、人類がまだ解決し得ていないことにも、多くの人に触れてもらい、知ってもらい、そういうものの存在を早くから予感させることが重要ではないかと考える。ただしこれはあくまで原理原則であって、カリキュラムの範囲が無限定に広がると受験生が困難に陥るというもう一つの問題があることは私も知っている。……
私がじつはここで言いたかったのは、文化の最奥、生動する未知の世界、未解決・困難な部分
に、できるだけ多くの人が開かれていること、誰でもがそれに近づく可能性において自由であること-------それが私の考える"教育と自由"のテーマにおける⑦自由の真の意味だということである。勿論、生きた文化の最奥に近づく自由のグレード(注4)は個人によってまちまちであり、教科内容によってもいろいろに差があるだろう。けれども、誰は能力があるからそれに近づく資格はあ
るが誰は近づいてはいけないと⑧外側で決めつけるのは、自由への侵害である。一般民衆には難しい内容だからここまで教えれば十分でそこから先は立ち入り禁止にしよう-----例えば常用漢字のごとき例あり----というのは、いわば愚民政策に外ならない。
(西尾幹二『教育と自由』新潮社による)
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(注1)カリキュラム:教育の内容 (注2)所以:理由 (注3)稔り:「実り」と同じ (注4)グレード:程度 |
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